CxOキャリアストーリー016
CxO キャリアサマリー
松浦 幹夫 氏
マツウラ合同会社 代表
松浦氏:大学3年生、ちょうど20歳の頃、「金持ち父さん 貧乏父さん」という本を読み、起業やベンチャーに関心を持ち始めたのがきっかけです。当時の私にとって、尊敬する人といえば父親でした。大企業に勤めていて学歴も高く、まさにエリートという感じで、中学生の頃から自分はこの人みたいにはなれないなと。でも「金持ち父さん 貧乏父さん」を読んだとき、うちの父は貧乏父さんや!と感じたんですよね(笑)。いやが応でも就職とか意識しないといけない中で、ただでさえ勉強もできない仕事もできない、ないないづくしの中で、社会に出るのが怖くてたまらなかったんですが、本を読んで自分でも頑張れば何とか生きていけるかもしれないと思えたんです。それから一気に、ベンチャーという生き方に興味が湧きました。この本で特に影響を受けたのが、ビジネスの4象限のフレームワークでした。たとえば、会社という仕組みの中で働くエリートサラリーマン、自分が動く個人事業主、自分で仕組みを作るビジネスオーナー、お金に働かせる投資家といった4象限です。自分は仕組みを持つ側に行きたいと思いました。
--なるほど。その本を読んだのは大学時代でまだ就職前だったと。そこからイシン株式会社に創業メンバーとして参画されていますが、どのような経緯があったのでしょう?
松浦氏:ちょうどその頃「孫正義 起業の若き獅子」という本を読んだり、サイバーエージェントの藤田さんがテレビに出始めたりしていて、それがすごく刺激的だったんです。完全にベンチャーにのめり込みました。ただ、当時在学していた青学にはそういうベンチャー志向の学生があまりいなかったと思います。そんな中、慶應大学の学生が「ベンチャー通信」というフリーペーパーを作っているサークルを見つけて、思い切ってそこに参加したんです。そこで「ベンチャー通信」を創刊した明石さん(イシン株式会社創業者)と出会い、一緒にサークル活動をすることになりました。その出会いがきっかけで私のキャリアが広がっていきました。
松浦氏:大学では1年間ほどそのサークル活動に参加していました。その後、私は新卒で光通信系の、かなり体育会系な会社に入りました。当時の採用キャッチコピーが「20代で、ぶっちぎれ!」みたいなもので、僕もぶっちぎってやろうと思って入社したんですが、全然ぶっちぎれなくて(笑)。結果的には10ヶ月ほどで退職しましたね。大学のサークルの先輩だった明石も半年くらいで会社を辞めていて、会社を立ち上げようと周囲に声をかけていたらしいのですが、誰も一緒にやってくれなかったと。皆、いい大学から大手へ就職してますから当然と言えば当然ですよね。でも、僕はその頃、本当にくすぶっていて、明石から「一緒にやらないか」と声をかけられすぐに決断しました。それが会社設立時に加わる元々のきっかけになりました。
--そのときの心境としては、明石さんだからというよりも、自分が今いる環境から抜け出したかったという感覚だったんですか? それともやっぱり「金持ち父さん 貧乏父さん」の影響もあって、起業という道を?
松浦氏:当時はそこまで深く考えていたわけではなかったですが、やっぱりこのまま会社の枠組みにいると、ずっとラットレースだなとは感じていました。出世できる見込みがあれば違ったかもしれませんが、自分は社会人早々に組織落第生として評価されてしまったので。一方で、学生時代に「ベンチャー通信」を通じてイベントをやったり、雑誌の広告欄を売っていた経験があって、ある程度お金を稼ぐ成功体験がありました。学生のサークル活動でも、新卒時の給料と近い金額は稼げていたので「ちゃんとやれば生活できるんじゃないか」と楽観的に考えていた部分もありましたね。明石と僕、それからインターンが1人の計3人が法人設立の初期メンバーでした。
--設立から上場までは20年とお聞きしています。その間、イシンではCxOとしてどのような役割を担っていたのでしょうか?
松浦氏:ざっくり言うと、前半10年と後半10年で役割が大きく違いました。前半は「ベンチャー通信」や「ベストベンチャー100」といった、創業時からの事業しかなかったんです。いわゆるベンチャーブランディングや採用支援がメインで、私は取締役という肩書きでしたが実際にはトップセールスとして現場の営業チームに入っていました。簡単に言えば、営業の一員として走り回っていた時期ですね。後半の10年は、会社として事業の多角化に舵を切りました。一つの事業では市場の限界が見えてきたので、新たな柱を探すフェーズに入ったんです。ちょうどその頃、私自身も広告営業には少し飽きていたこともあって、ちょっと外の世界を見てみたいという気持ちがありました。そんな中で、GMOさんと「ベンチャー通信」とジョイントベンチャーを立ち上げて、エンジェル投資をやっておりまして、私もイシン側の人間としてスタートアップを探す役割を担うようになりました。いわゆる今で言う「ソーシング」の活動ですね。スタートアップの発掘です。
--その後、会社の中でいろんな局面があったと思いますが、任される仕事も変わっていきましたよね。特にその10年、ベンチャー投資やブランディング、採用支援から、CVCやVCへと展開していったのは重要な転換点だったのでは?
松浦氏:おっしゃる通りです。GMOさんとの経験を通じて、今度は自分たちでもファンドを運用したいという話になり、私はその実務責任者として立ち上げを任されました。イシンとしても海外に目を向け始めたタイミングもあり、私は主に東南アジア・インドに投資をするファンドに投資をする海外ファンドの立ち上げ、資金集めから運用までを一手に担っていました。
松浦氏:取締役になったのは創業から2年目、年齢でいうと25歳ぐらいでした。当時は、正直そこまで“取締役的な仕事”をしていたかというと、まだ会社の規模も小さかったですし、実務もガンガンこなしている段階でしたけど、やっぱり対外的にはそう見られる立場でしたし、その意味ではすごく恵まれていたと思います。深く実感していることは「10年間、一生懸命やれば、何かしら形になる」ってことですかね。もともと「ベンチャー通信」の広告営業を始めた時も、「もっと学生さんにベンチャー業界の魅力を伝えたい」という想いからスタートしていて、それが原動力でした。時代の追い風や政府の後押しもあって、徐々に広がっていきました。だからこそ、自分が真剣に向き合ってきたものが、少しでも社会の役に立ったという実感はあります。もちろん成果には濃淡があると思うんですけど「10年本気でやれば、人前で話せるくらいにはなるし、仕事にもなるし、お金にもなる」というのは、自分の中での確かな自信になりましたね。
松浦氏:20年間CxOを続けてこれたのは、一番は創業者との信頼関係があったからですね。正直、転職しようかなと考えた時期も2〜3回ありました。でもそのたびに、やっぱり明石との関係性が大きくて踏みとどまったというのがあります。特に印象に残っているのが、ファンド事業を始めるきっかけになった出来事です。ちょうど明石がシンガポールに移住するタイミングで、「1年くらい仕事のミッションを決めなくてもいいから、東南アジアを一緒に出張しながら、次にやることを探そう」と言われたんですよ。そういう自由な発想も含めて、任せてもらえていたというのが大きかったですね。あと、創業初期に10数人いたメンバーが次々と離れていって、最後に残ったのが自分1人に、なった時期がありました。明石から「松浦はどうするの?」と聞かれて「僕は一緒にいます」と答えたんです。そのとき明石が、「最後は幸せにするわ」と言ってくれて。それで、僕が「上場するときに鐘を鳴らしたいです」って言ったんですよ。創業2〜3期目で、まだ20代中盤の頃でしたけど、そのとき以来一度もその話をしていなかったのに、実際に上場するとなったとき、僕はすでに役員を退任していたにも関わらず、役員会で「鐘を誰が鳴らすか」という話になった際に、明石が「松浦と昔約束したから、自分と松浦の2人で最初に鐘を鳴らしたい」と言ってくれたんです。もうその話を電話で聞いたときは、思わず男泣きしましたね。十数年前の約束を覚えてくれていたことに、本当に胸を打たれました。
--上場前に退任されていたのですね。最終的にCxOを退いた背景にはどんなことがあったんですか?
松浦氏:そうですね、大きく2つあります。まず会社視点でいうと、上場すると求められるマネジメントの役割がより強くなる中で、私が担当していたのは投資や海外など“その他事業”のポジションでした。会社の方向性や重点領域と、自分に期待される役割との間に少しギャップを感じるようになった、というのがあります。もうひとつは個人の視点でいうと、まだプレイヤーとしても頑張れる内に「独立したい」という気持ちがありました。創業メンバーが社内にいることが老害になることは絶対に避けるべきと思っていましたし、また、明石とも上場後のキャリアについては以前から話していたので、「いよいよそのタイミングかな」と思いました。結果的には、退任してから上場までの約10ヶ月間は役員ではなかったんですが、それでも鐘を鳴らす約束は果たしてもらえた。そこには本当に感謝していますし、どこかでまた恩返ししなきゃと思っています。
松浦氏:現在は大きく二つの軸で活動しています。一つ目は「マツウラ合同会社」での活動で、こちらは前職での経験を活かして、CVC支援やオープンイノベーション支援を行っています。強い創業事業を持っている企業が、次の事業の柱をつくる際に、創業者と一緒に進む方向性を探ったり、投資やM&Aといった手法を活用して新たな可能性を開いていく。そんなお手伝いをしています。また個人としても、エンジェル投資家として現在16社に出資しています。個人では金額には限りがありますが、最近は一緒に会社を立ち上げ、成長期の手前まで伴走する「株主兼役員」といった立場で関わるケースが増えています。具体的な事例で言うと、「株式会社スタートアップコネクト」という会社があります。ここは厳選したスタートアップに対して現役経営者をマッチングするプラットフォームを運営しており、私は社外COOとして関わらせていただいています。創業メンバーは、30代で上場を2回経験している薛さんと、シリアルアントレプレナーの寺岡さん。お二人ともリクルート出身の方で、非常に優秀です。独立後にすぐに優秀な方々と深くお仕事をさせて頂くきっかけを頂けたことは感謝しかないです。もう一つは「教育分野」での取り組みです。こちらはアナザーチーム株式会社での活動で、40代も中盤に差し掛かるタイミングで「自分が本当にやりたいことは何だろう」と考えたときに、「起業家の経験を次世代の起業家に伝えること」だと思ったんです。そこで現在、先輩経営者たちの経験を共有する“クローズドな学びの場”を月に2回開催しています。いわば“令和版・松下村塾”のようなもので、失敗や挫折、そのときどう内省し、どう乗り越えてきたかというストーリーを共有する会です。これは私がゼロから立ち上げたわけではなく、創業者の太田氏(株式会社ピグマ代表)が5年間続けてきた「レバレッジ倶楽部」の取り組みを引き継いで、2代目として運営している形です。現在は、この場をどうブラッシュアップしていくかにリソースを注いでいます。